HISTORY

歴史

弓道具の歴史

弓道具の歴史

シャフト/箆(の)

実業団の活躍による金属矢の普及
  • 昭和30年代後半 学校弓道の再開で矢が品不足気味

    学校弓道の再開で昭和30年代後半より矢が品不足気味となる。矢の粗製濫造の懸念により静岡にて協会の会議が開催されるほどであった。 昭和38年にはアサヒ弓具工業によりイーストン社製金属箆の輸入が行われた。

  • 昭和39年 東京オリンピック

    昭和39年に行われる東京オリンピックで、アーチェリーが正式種目として実施されるというIOC決定がありました。 全日本弓道連盟はFIFA正式加盟の年に「国際部」を設け、東京オリンピックでの和弓の勝利を目指しアーチェリーの調査研究を行っていました。 全日本弓道連盟から委託を受けた住友軽金属株式会社が高力アルミ(一七S、三五S)で試作しましたが、実用には至らなかった。 結局エントリー国数が少なく東京での実施は見送られ、公開競技としての弓道が行われた。

  • 昭和40年 耐蝕硬質アルミで実用化

    昭和40年頃から耐蝕硬質アルミ(五六S、六二S)で一応実用化の端緒を得ました。 その頃東京周辺の大学では金属矢が使用されつつありましたが地方や一般の関心は薄く竹矢との違和感を少なくする為に 焦茶色にアルマイト加工しても普及には多少の時を要しました。然しトヨタ自動車弓道部は金属矢を初期段階より積極的に取り入れ 全国的弓道大会で好成績を上げられた事が全国に金属矢が普及する原動力となりました。 そして、一両年後には住友軽金属株式会社の協力のもとに(七五S・T六H)の超高質アルミシャフトによる20kg以上の弓にも 十分耐える廉価な国産金属矢が完成しました。

  • 昭和40年代前半 国産シャフトが普及へ

    昭和40年代前半頃国産シャフトは比較的安価の為竹箆との違和感もありましたが普及の輪は拡がりました。 その頃イーストンシャフトは竹箆に比較して高価で遠的矢としては使用され初めましたが、近的では竹箆の使用が圧倒的に多かった。 その後、国産は更にスパインの優れた(七八S)が開発されましたが相次ぐ産業電力の値上げで 昭和50年には価格が輸入シャフトに可成り近づきましたので以後は、円高の効果による価格の引き下げもあり より高性能の米国イーストン社製シャフトの金属矢比率が徐々に増加しました。この頃から近的矢でも ジュラルミン矢が竹矢よりも多く使用されるようになりました。

ゆがけ

  • 時代をこえて使われる地鹿

    ゆがけの素材としては、戦前も地鹿(じしか;国内産の鹿)はほとんど使われず、中国からの輸入の鹿が使われていた。
    中国産に比較して肌がざらざらし薄目で腰がなくゆがけには向いていないのが原因の様です。 印伝製品の様に漆を付けたり、ニベを製造するには逆に国内産の鹿の方が良いそうです。 終戦直後中国から輸入できなくなり一時期、兎や猿の革が使われたそうですが良い物ではなかった。 鹿革は液体通す為、航空燃料を濾過するのに使用された。その為在日米軍の軍需物資として鹿革が輸入され、その余剰品に依り鹿革での製作が戻った。 経済の回復と共に中国、東南アジア、北米、南米、更に南半球からも入荷する様になった。

弓道具協会の歴史

弓道具協会の歴史

全日本弓道具協会 歴史

  • 戦前

    戦前には弓道具協会の前身である日本弓具工業組合日本弓具商業組合と言う組織があった (看板 林忠兵衛弓具店所蔵、名簿 山内弓具店所蔵)。 昭和14年には戦争の影響で物価統制令が施行され、組合に入っていなければさまざまな物資が供給されず営業すら出来なかった。 その為か山内氏所蔵の会員名簿も会員数は多い。物価統制令で弓具も等級を付けられその価格で販売することを強いられた。 評価は組合員幹部である査定委員が行った。最上級品として石津巌雄 氏、柴田勘十郎 氏の弓は名匠の作として例外とされ、 さらに高価な価格がつけられていた。当時、木村武雄氏が組合長として活躍されていた。

  • 戦後

    終戦後、昭和25年に全日本弓道具協会として復活する。その当時の会員名簿は紙1枚に手書きされた程度で会員数も少なかった。 尚、当初の名簿は不明。昭和35年取引高税の折り弓道具協会は茨城県の代議士佐藤洋之助氏にお世話になった。 その後のごたごたから一度全日本弓道具協会を発展的に解散し、名称を全日本弓道具組合連合会と変更し、 会長も木村武雄氏から小沼英治氏が引き継いだ。 昭和42年9月木村武雄会長、曽根正康副会長、体制から小沼英治会長、体制に替わり会員名簿も同時期2冊(名簿朝矢弓具店所蔵)の発行となった。 小沼会長の昭和47年現在の名称全日本弓道具協会に変更した。

全日本弓道具協会 年表

1895 -

1895
京都在住者により、各種武道を総合した団体として大日本武徳会が設立

1911 -

1911
大日本体育協会の創立
1912
第五回オリンピック大会(ストックホルム)に初参加
1931
重要産業統制法
1933
当時の著名な弓道家27名によって「弓道形調査委員会」が構成され射礼に関しては小笠原流に統一する事で決着
1934
「弓道要則」として正式に制定
1939
価格統制令;一般商品価格、運送賃、加工賃などの価格を基準以内に据え置く
1941
岸記念体育会館 建設
1942
武徳会 政府の外郭団体として新たに改組
1942
日本弓道工業組合 日本弓道商業組合 結成済み
1942
日本弓具工業組合 理事長 木村武雄;組合員名簿 山内弓具店所蔵
1942
日本弓具工業組合 支部長 林忠兵衛の看板 林忠兵衛所蔵
1945
武道の授業禁止
1947
全日本弓道連盟 奈良:橿原神宮建国記念館で創設 初代会長 宇野要三郎
1948
取引高税創設:主食を除く取引高に1%の税率で課税され、印紙で納入
1948
全日本弓道連盟 解散
1949
日本弓道連盟 設立
1949
月刊誌 日本弓道 創刊 会長 樋口 實

1950 -

1950
全日本弓道具協会 創設 会長 小沼英治
1950
第一回全国弓道大会(現:全日本弓道大会)を開催
1951
文部次官通牒により学校における弓道の実施が許可
1952
学校弓道指導の手びき 著作権 文部省 アサヒ弓具工業株式会社所蔵
1953
弓道教本 第一巻 発刊
1953
タブロイド版 日本弓道を 雑誌 弓道 (第42号)として改版
1956
柔、剣道連盟と相互の連絡、強調、親睦、普及促進の 日本三道会 を結成
1956
箱根誠心館弓道場で初の中央研修会
1956
中央大学弓道場で第一回全国高等学校弓道大会を開催
1957
名称を 全日本弓道連盟に変更
1958
京都 齊寧館弓道場増改築
1960
名称を 全日本弓道具組合連合会に変更する 会長 木村武雄
1961
英文の八節 JAPANESE ARCHERY 36頁の冊子 アサヒ弓具工業株式会社所蔵
1962
弓道組合連合会で矢羽の共同購入をする 林忠兵衛;配布案内の手紙所蔵
1963
エポキシ樹脂が安くなり グラス弓の試作が行われる
1964
日本武道館 完成
1964
東京オリンピック 公開競技として弓道が行われた
1965
住友軽金属の耐蝕硬質アルミ製 ジュラルミン箆の製作始まる
1967
全日本弓道具組合連合会 木村武雄会長から小沼英治会長に会長交代
1967
体育局長通達により高等学校における弓道の正科が採択
1972
名称を 全日本弓道具協会に変更する 会長 小沼英治
1973
ワシントン条約 絶滅の危険がある野生動植物を取り引きするルールを設ける
1975
ワシントン条約 採択
1975
国産ジュラルミン箆が割高となり イーストン製が徐々に増加する
1976
竹弓に比較して 割高であったグラス弓が 安価になり 普及しだす
1980
日本は ワシントン条約の締約国となり この時より粕尾の輸入は中止となる
1982
羽の仕入れ先が 広州交易会から天津へ さらに奥地の新彊ウイグルへ
1985
鷲羽の主な流通が無くなる
1998
松永重昭会長休職の願い提出により、甲賀副会長が会長代行に任命
1998
総務委員会発足 全日本弓道具協会のホームページ開設
1999
福岡の総会にて 甲賀公壹、正式に会長に任命
1999
弓道連盟50周年 功労者表彰 高橋忠士 猪飼秀重 長谷川康則 林忠兵衛 横山黎明

2000 -

2000
全日本弓道連盟に明治神宮中央道場建設として寄付
2001
明治神宮弓道場内での売店出店で全日弓連と明治神宮と会合し許可を頂く
2002
第1回明治神宮崇敬会全国弓道大会に協賛
2003
明治神宮遠的大会兼成人記念大会の後援
2003
第1回明治神宮崇敬会全国弓道大会に協賛
2006
国際弓道連盟 創設
2007
東京総会にて 山田吉邦会長から山田整司会長に会長交代
2007
国際連盟設立記念大会
2009
弓道普及の小冊子 製作
2009
柴田勘十郎 神宝「梓御弓」づくり 13年伊勢神宮式年遷宮へ
2011
東日本大震災の被災地に義援金