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弓道具を知る

2019.01.24

   

弓矢の話(3)

堂前矢。芝矢。野矢などの名称があるが、芝矢、野矢はいずれも堂前の下稽古に使った矢であって、矢の分類としては堂矢と心得てよい。

用途は、京都三十三間堂並びに江戸三十三間堂通矢であって、矢の速さや、物を貫く力は必要としない。軽く飛翔するように工夫された競技用のもの。強弓に軽矢を射るので、矢の中心の張りをきわめて強く必要としている。そのため、元末を細く削り、特に根元三寸末ばかり末竹を節どめにしてツギ穂になっている。これは、折れた場合、穂先を取り替え直ちに使えること、また一面、一本の竹では根元を細く作れない点もあって工夫されたものであろう。

通矢の歴史は古く、慶長十一年正月十九日(一六〇五年)伴喜左衛門の弟子浅岡平兵衛初めて堂に上り、五十一筋を通し云々。――(註・伴喜左衛門と喜右衛門は別人らしい)
吉田大蔵は、元和元年(一六一五年)大坂夏の陣において、左指三指を落とすも、その技毫も衰えず、元和・寛永の間十数年に亘り廔堂に上り、前後七回天下一の名を更新している。
江戸三十三間堂。正保三年四月十四日(一六四六年)海野二左衛門、根矢をもって千五十筋を射て通矢二百五十三筋、これ根矢の元祖かとあり、この頃、浅草にあったものらしい。
京都三十三間(ま)堂は六十六間。江戸三十三間堂は半堂と称し、三十三間である。
江戸三十三間堂において、寛文八年四月十八日(一六六八年)、簗瀬亀之介、八歳にして総矢六千五百三本、通矢三千七百一本。弓は四尺八寸。分は五分五厘。矢は一尺七寸と記されている。

京都三十三間堂。寛文九年五月二日(一六六九年)、星野勘左衛門、総矢数一万五百四十二筋を射て、通矢八千筋を記録した。
和佐大八郎は、十九歳にして七分五厘の弓を四寸詰めて射たと聞く。総矢数一万三千余筋を射て八千百三十三筋を通して、天下一の名を挙げたのが貞亨四年四月十六日(一六八七年)。

江戸三十三間堂は、初め浅草に、後に深川に移り、百七十余年続いている。なお、この記録の中に、十歳前後の子供の射手が多いことが特筆に値する。
江戸三十三間堂は、数回の火災その他によって、再建しているが、今はない。